南九州の外城の町並み、麓の町並みの記録です。
野田麓





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野田麓は薩摩藩が領内に配置した外城(とじょう)の一つで、肥後との国境を守るため多数の武士(郷士)を集めて居住させました。上の通りは薩摩街道・出水筋にあたる旧熊陳馬場。藩政時代に歴代藩主の参勤交代の主要道路となり、普段は武士の鍛錬の場としても利用されました。

野田郷駅を降り、近くの十三仏交差点を渡ると麓地区。真っすぐ天神まで延びる約1kmの通り沿いに玉石垣と美しい生垣が続き、武家屋敷が左右に並びます。通りに面する野田小学校に麓の中心である地頭仮屋が置かれました。旧熊陳馬場は野田郷武家屋敷通りと現在呼ばれ、藩政時代の面影を残す麓らしい景観が保たれています。
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武家屋敷通り
野田麓には五棟の武家門が現存し、いずれも出水市の文化財に指定されています。
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野田麓の武家門
袖壁の上に袖屋根が付く立派な門です。脇に切石を3段、4段に積み、左右に丸石を積み上げて石垣を形作っている。野田麓の武家門は古いもので170年以上、新しいものでも100年近く経過しているとのこと。
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野田麓の武家門はいずれも門柱に控え柱を備える立派な門です。
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石柱門
野田麓には少数ですが石柱門も残ります。
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石敢当
薩摩藩の麓には石敢当がよく見られます。石敢当は通りの三叉路に設けられます。

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天神付近の町並み
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下名地区
最初の十三仏交差点から北側の下名地区に入ると、下名地区にも石垣や石柱門が見られます。

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下名地区の町並み
上名地区に劣らず、玉石垣や美しい生垣が続き、こちらも良好な景観が保たれています。
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感応寺
感応寺は島津氏の初代忠久の命で1194年に創建され、境内に初代忠久から5代貞久までの島津家当主の墓所(島津五廟社)があります。近くに初代忠久が家臣の本田貞親を下向させて守護所として築かせた木牟礼城跡があることから、島津発祥の伝承があり、平安時代に島津荘があった都城市との間で島津氏発祥の地を巡る論争が起きました。感応寺は島津家の菩提寺として栄えましたが、明治2年の廃仏希釈で廃寺となり、のちに再興されました。

訪問日:2007.5.30(最初の2枚)。2008.7.1(3枚目以降)
備 考:春先(2月下旬から3月上旬)は石垣に沿って寒緋桜(カンヒザクラ)が咲き乱れ、熊陳馬場をピンク色に彩るそうです。

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