南九州の外城の町並み、麓の町並みの記録です。
吉田麓





吉田麓は、鹿児島市の北部、旧吉田町にある麓で、藩政時代は吉田郷と呼ばれました。重富と蒲生を結ぶ県道沿いに武家門、石垣、生垣など麓の遺構が残ります。吉田は島津歳久が吉田城主として18年間治めた地としても知られます。

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吉田麓交差点

中世の吉田は大隅正八幡宮につながる吉田氏の領地でした。島津氏との争いに敗れ吉田は島津氏の所領となります。吉田城は島津氏が大隅西部を攻める最前線基地となり、貴久が義久・義弘らを従え蒲生氏との間で合戦を繰り返します。大隅蒲生合戦は島津氏が勢力を大隅国に拡大するきっかけとなった戦いです。戦いを支えた吉田の家臣団は吉田衆と呼ばれました。歳久は永禄6年(1563年)に吉田の領主となり、天正8年(1580年)に祁答院に移封されると、吉田は藩の直轄領となりました。
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地頭仮屋跡(旧吉田小学校)
藩政時代の地頭仮屋は、旧吉田小学校の敷地にあったと言われます。吉田麓交差点近く。

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吉田麓の武家門
吉田麓交差点近く。県道に面し武家門と左右に石垣が建つ。往時の武家屋敷を店舗として利用。屋敷内にイヌマキや竹林、庭園が見られます。下は敷地内のようす。
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藩政時代の吉田郷は、本名、本城、宮之浦、佐多浦の各村からなり、吉田松尾城のある佐多浦が吉田郷の中心でした。松尾城址近くの城内集落に島津歳久の招魂碑、宝勝院跡の遺跡があります。

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吉田麓の町並み
武家門や見事な石垣が見られます。
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吉田麓の武家門
脇に袖屋根が付いた立派な門が残っています。
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吉田麓の武家門
吉田郵便局近く。県道を下がったところに残っていたが、現在(2019年)は見られず。

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吉田麓の武家門
交通量の多い県道沿いに面して建つ。吉田麓交差点近く。武家門の左右に低い石垣や生垣が続く。
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吉田麓の町並み
県道沿いに続く低い石垣。右上は近くの石柱門。

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東麓付近の町並み
県道から脇に上がったところ。

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東麓付近の武家門
上の脇道に建っていた武家門。現在(2019年)は見られないようです。

島津歳久について
島津歳久は島津貴久の3男として日置・伊作城で生まれる。17歳で大隅岩剣城の合戦に参加し、26歳で吉田領主となる。44歳までの18年間、吉田を治め、その間、貴久や兄の義久・義弘らと大隅国に勢力を拡大し、祁答院平定後、領主として吉田から祁答院に移ります。秀吉の島津攻めにより義久は降伏するも歳久は降伏を拒み、また、秀吉の朝鮮出兵の時期に起きた梅北一揆の責任を負わされ、歳久に秀吉から切腹命令が出されます。歳久は竜ヶ水で自刃し56歳の生涯を終えました。歳久の死後、娘婿の嫡男・常久の代に日置領9千石が与えられ日置島津家を創設。歳久は日置島津家の始祖とされています。

訪問日:2008年6月13日
備 考:吉田麓に見られる武家門は5棟(現在は3棟)
参 考:吉田町郷土誌等

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