南九州の外城の町並み、麓の町並みの記録です。
喜入旧麓





喜入旧麓(もとふもと)は、喜入麓から少し離れた給黎城址(山城)の麓に位置する集落です。旧麓には石垣や生垣、武家門、古い石柱門など往時の麓らしい町並みや遺構が残ります。

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喜入領主・肝付氏は、初代兼三から3代兼武まで給黎城の麓を居館とします。
加治木城主であった肝付兼三が文禄4年(1595年)に所替えにより喜入に移ると、兼三に従い多数の家臣が加治木から移住しました。第4代兼屋が居館を琵琶山南麓に移すと、旧給黎城の麓は府本としての機能を失い、旧麓(もとふもと)と呼ばれます。喜入領主・肝付氏の歴代の墓は旧麓にあります。
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旧麓の町並み

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旧麓の町並み
旧麓の景観を形づくるのは、湧水が流れる水路と、水路に架かる石橋、連なる石塀や生垣、往時の面影を残す門柱、背後に構える山城(給黎城址)など。通りを歩くと往時の武家集落の雰囲気を感じることができます。
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給黎城址
給黎城は、北之城・本城・南之城からなる山城。建久の昔(1190年頃)、薩摩半島を勢力下に置いた薩摩平氏の流れである伊作平次郎良通の次男・有通が居城し、姓を給黎(きいれ)と名乗りました。良通の嫡男・道房は河邊氏の始祖、3男・忠永は頴娃氏の始祖。
給黎は応永18年(1411年)に伊集院頼久の所領となったが、応永21年(1414年)には島津氏8代久豊が給黎城を攻略し、このとき地名を喜入に改めました。
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旧麓の石柱門
往時の麓集落の面影を残す古い石柱門が多く残ります。笠石を載せた立派な門柱が多い。
門柱に立てられた竹組みはお盆を迎える準備でしょうか。

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牧瀬家武家門
旧麓に残る唯一の屋根付き門。門と石塀が鹿児島市の景観重要建造物に指定。腕木門。どっしりした太い石柱に梁を渡し、垂木や腕木で屋根を支える構造です。
下は2007年に訪れた時のもの。
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牧瀬家武家門と水路(2007年)
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旧麓研修センター
手作りの干支の動物を飾り新年を迎えるのが旧麓集落の恒例行事です。

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旧麓の町並み
石垣脇の水路を清らかな湧き水が流れる。田植えの時期になると途中の取水口から水を田圃に引き込むようになっています。

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旧麓の武家屋敷
立派な石垣と石柱門が残ります。
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水路と竹垣
水路は各地の麓で見られる風景ですが、竹垣と水路の組合せはあまり見られない。旧麓の大切な財産と言えるでしょう。
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旧麓の町並み
屋敷内に立派なイヌマキが見られる。水路に沿って屋敷が並ぶ景観は、加世田麓との共通性を感じます。

喜入氏について
島津氏9代忠国の7男・忠弘が喜入を拝領して分家し、初代当主となる。喜入氏を称したのは5代季久から。季久は喜入・指宿・鹿篭を領有し、鹿篭に移居した。6代久道の代に永吉(現在の鹿児島市・永吉)に転封となり、喜入は肝付氏の領有となった。7代忠続の代に再び鹿篭に転封となり、以後代々鹿篭を領有した。喜入家は一所持で、薩摩藩の家老を輩出し島津家を支えた。喜入氏累代の墓は枕崎市にある。

訪問日:2008年7月28日(2009.6、2007.8、2019.8)
備 考:旧麓でも古民家・武家屋敷を利用した店舗を実現したいところ。水路に沿って散策すると
    気持ちがよい。
参 考:喜入町郷土誌等

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