南九州の外城の町並み、麓の町並みの記録です。
今和泉麓





今和泉麓(いまいずみふもと)は,薩摩半島の南に位置する小さな麓です。錦江湾の海岸近くに今和泉島津家の屋敷が設けられ,屋敷跡の遺構と麓の町割りが残っています。

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   今和泉島津家屋敷(領主仮屋)跡

今和泉は今和泉島津家の領地であり,現在の今和泉小学校に領主仮屋が置かれました。今和泉島津家は,島津家御一門の一つで,島津家第22代継豊が,断絶していた和泉家を弟の忠郷(第21代吉貴の7男)に継がせ,延享元年(1744年)に再興させたものです。今和泉島津家の本屋敷は現在の鹿児島市大竜町にあり,今和泉と磯の2ヵ所に別邸が許されました。今和泉郷は,今和泉家の再興にあわせ,指宿郷の岩本・小牧・新西方の各村と頴娃郷の利永村を編成して新設されました。
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今和泉小学校
今和泉島津家の屋敷(領主仮屋)跡。
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石垣と隼人松原
当時の石垣と隼人松原と呼ばれた古い松並木が残ります。今和泉島津家の屋敷は宝暦4年(1754年)に初代忠郷によって建てられました。
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麓の案内標識
大河ドラマ「篤姫」の放映にあわせ,篤姫ゆかりの地や往時の町割り,史跡を巡る散策コースと案内標識が整備されました。

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麓の町並み
今和泉島津家の屋敷跡近くに石垣と高い生垣,屋敷林が見られます。奥は錦江湾。

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麓の武家屋敷

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麓の町並み
午後になると錦江湾からの海風が麓の屋敷林を揺らします。

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町割り
麓の中を1本の街路が南北に通り,往時の町割りがそのまま残っていると言われます。
街路は先が見通せないように途中でかぎ型に曲がっている。

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石柱門

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麓下
左側は海岸が迫ります。散策コース。
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麓に残る石柱門の数々

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麓下(2019年)
低い石垣・生垣の続く町並みが残る。突き当りを左折し、国道226号を渡るとJR今和泉駅へ

<山側の散策コース>
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薩摩今和泉駅
右は駅前広場から続く散策コース。先の線路の踏切を山側へ渡り、半周する。

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豊玉姫神社
豊玉姫神社の手前に今和泉島津家の墓地がある。

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今和泉島津家の隠居屋敷跡
第3代忠厚,第4代忠喬が隠居した屋敷の門構えが残ります。
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JR指宿枕崎線
踏切を渡ると散策コースの終点。右端は孝女「袈裟子」の碑。
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麓の石垣と石柱門(2019年)
最初に訪れてから10年後も特に変化は見られませんが,石柱門のある屋敷は古民家レストランに代わっています。

天璋院篤姫について
大河ドラマの主人公となった篤姫は,天保6年(1835年),今和泉家第5代忠剛の長女として本邸(鹿児島市大竜町)で生まれます。幼少時は一子(かつこ)・於一(おかつ)と名付けられ,今和泉の別邸にも訪れたと言われています。分家から本家・斉彬の養女,さらには近衛家の養女を経て,将軍家に輿入れした篤姫は,薩摩藩が討幕に舵を切ると,実家の島津家と対立し,大政奉還後は(和宮とともに)徳川家存続と慶喜助命に尽力し,また,江戸城無血開城に大きく貢献しました。明治維新後は東京の徳川宗家邸で暮らし,49歳で亡くなるまで,故郷・鹿児島に帰ることはありませんでした。篤姫の墓は上野寛永寺の徳川家墓所内,家定の墓の隣りにあります(普段は非公開)。

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訪問日:2008年7月26日(2007.10、2019.4)
備 考:御一門は垂水島津家・加治木島津家・重富島津家・今和泉島津家の4家。
参 考:指宿まるごと博物館他

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