南九州の外城の町並み、麓の町並みの記録です。
坊泊





坊津は,薩摩半島の南端に4つの大きな入り江をもつ風光明媚な町で,海上貿易や仏教文化の拠点として栄えた歴史をもちます。藩政時代は4つの外城(坊・泊・久志・秋目)が置かれるなど,薩摩藩にとって重要な拠点でした。坊ノ浦には,石段や石畳の坂道,石垣などの往時の町並み,繁栄をしのばせる史跡が残ります。

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坊ノ浦の町並み

坊津の歴史は,奈良の時代にさかのぼり,遣唐使が博多から屋久島〜奄美〜琉球の南島航路で唐に渡る寄港地として知られ,ゆえに坊津は別名「入唐道」と呼ばれました。坊津は,平安時代,日本三津の一港として繁栄しますが,元寇により日中の国交が途絶えると,倭寇の拠点となり,また,徳川幕府が鎖国政策をとると,薩摩藩による密貿易(対明貿易,東南アジア)の拠点となり,坊の町を中心に多くの豪商が生まれました。
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旧道沿い(上之坊付近)
坊トンネルが開通するまで国道226号の本道であった。坊の中心へ下る。上之坊の旧道沿いに屋敷跡や石垣が残っています。右の石垣の先には草に埋もれた石柱門が残っている。
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古い石柱門(左)と旧道を下った付近(右)
外城の麓らしい雰囲気が残るとしたらこの付近であろうと思います。古い石柱門や石垣,生垣の町並みが残っている。

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高い石垣と石柱門
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龍巖寺
一条院は真言宗であったが,こちらは浄土真宗のお寺。立派な本堂が建っています。本堂はかつお漁好景気の頃の寄進により建てられたようです。左の大きな瓦(棟瓦)は建て替え前のものでしょうか。
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坊郵便局付近(左)と近衛屋敷跡(右)
近衛屋敷跡は,1594年,京都の近衛家19代・信輔(左大臣)が,秀吉により京都から坊津に配流され,居を構えた場所です。島津家は近衛家とつながりが深く,当時の当主・義久は信輔を深くもてなしたと言います。屋敷跡の藤は信輔が手植えしたものと伝えられ,信輔は滞在中,坊津の子弟を集めて書や絵を教え,京文化を坊津にもたらします。
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下浜付近(2007年)
石垣と古い屋敷跡。屋敷は現在(2019年)撤去されていました。
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坊之浜の倉浜荘(密貿易屋敷跡)(2007年)
海上貿易が盛んだった頃,辺り一帯に白壁の倉庫が立ち並んだことから,倉浜とも呼ばれました。豪商・森吉兵衛の屋敷。坊津には多くの豪商が生まれたが,享保8年(1722年)の「唐物崩れ」と呼ばれる幕府(薩摩藩)による密貿易の一斉手入れにより,多数の船が坊津から逃げ出し,以後坊津は衰退することとなった(*)。
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石段の坂道と石畳の路地(2007年)
坊は坂道が多く,石段や石畳があちこち見られます。
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かつての密貿易屋敷(左)と古い小屋(右)
密貿易屋敷は,外面は何の変哲もないが,内部の部屋は取引や密談,見張りのための工夫が凝らされた複雑な構造となっているようである。右の小屋は,小屋の用途は不明だが,板張りや軒先の構造・支えが美しく,興味深い。
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白壁の民家
白壁の腰から下はなまこ壁となっています。鹿児島県内では珍しいかも知れません。なまこ壁は壁面に平瓦を貼り目地をしっくいで固め、白壁に防水性をもたせたもの。
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高い石垣のある家(左)と石畳(右)
左の石垣は細い石柱門とイヌマキで門構えをつくっています。

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坊ノ浦の町並み
高台より。手前は坊泊漁港。家並の下は坊之浜,上は上之坊,奥は中坊。左の朱色の屋根は八坂神社。
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八坂神社
秋に豊作・豊漁を祈願してほぜどん祭りが行われる。ほぜどん祭りは,お賽銭を入れる桶を頭に載せて歩く十二冠女(振り袖姿の女性)が加わり,みやびな風情を感じさせる祭りです。坊津に配流された近衛信輔が伝えたとも言われます。

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中坊の遠景
中央やや右に龍巖寺。左の中腹に旧坊泊小学校(一条院跡)。
坊津町郷土誌によると,坊泊郷の地頭館(地頭仮屋)は龍巌寺の境内にあったとのこと。
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一条院跡への坂道(中坊)
一条院のかつての門前まち

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一条院跡(旧坊泊小学校)
一条院は,仏教伝来の年(538年)から約40年後の583年,百済の僧日羅が建立したと伝えられる寺院(真言宗)です。上坊中坊下坊と号する坊舎を三か所に建て,それらの名称は今も集落名として残ります。坊舎は坊津の名称の由来ともなりました。一条院は,1546年に後奈良天皇により勅願寺とされ,島津氏の崇敬と庇護を受けますが,明治の廃仏毀釈から免れることはできず,惜しくも廃寺となりました。
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一条院跡の遺構

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一条院の仁王像
一条院の中興・第7世頼全上人が1522年に山門を建立し安置したと伝えられます。明治2年の廃仏毀釈により,打ち捨てられましたが,地元の人々により現在地に復元されました。
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上人墓(左)と付近の町並み(右)
上人墓は一条院の歴代上人(僧侶)をまつる石棺型の墓で,旧坊泊小学校の裏手にある。四角墓と呼ばれ,日本では非常にめずらしい形状をしている。

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城郭のような石垣
坊津を車で走ると,くねくねと曲がる国道沿いの山側に,高さが3mに達するような立派な石垣のある屋敷が見られます。城郭のような石垣は今も健在。

坊泊郷について
外城としての坊・泊は,坊泊郷として合併し,明治2年には坊・泊・久志・秋目に,鹿篭(枕崎市)を加えて,南方郷となるが,南方郷はその後西南方村(現在の坊津町),東南方村(現在の枕崎市)に分かれました。

唐物崩れ(*)について
多くの密貿易船は坊津から鹿篭(枕崎)港に逃れ,鹿篭領主・喜入氏により保護され,大船は鰹漁,鰹節製造の特権が与えられ,今に至る枕崎鰹節の基礎を築くことになったと言われます。

訪問日:2019年10月5日(2007.9)
備 考:ほぜどん祭りは10月第3日曜日に開催。坊津歴史資料センター輝津館。
参 考:坊津町郷土誌,森高木「坊津」(かごしま文庫),枕崎水産加工業協同組合等

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