南九州の外城の町並み、麓の町並みの記録です。
坊泊





阿多は,薩摩半島の万之瀬川下流域に位置する地域で,藩政時代は阿多郷と呼ばれ,阿多郷の中心に地頭仮屋が置かれました。阿多麓を歩くと,静かな集落内に水路や武家門が残るなど,麓らしい景観・形態が良く残っています。

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阿多麓の町並み

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阿多病院付近
阿多の地頭仮屋は,旧阿多小学校(現在は阿多病院敷地内)にあったと言われています。

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阿多麓の町並み
阿多麓内を歩くと,街路に沿って水路,石垣,生垣,石柱門,武家門が見られる。奥には見事なイヌマキ。

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阿多麓の武家門
風格ある構え。腕木門。石段。正面からは見えないが後方に控え柱を備える。

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阿多麓の町並み
麓内を水路が走り,街路の左右に石垣と生垣が続く。
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武家門(左)と石倉(右)
阿多麓には石倉が2棟残っている。屋敷内のイヌマキは見事で樹齢は相当古いのではないか。

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阿多麓の武家門
腕木門。主柱の後ろに控え柱が見える。石段。

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阿多麓の武家門(同上)
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阿多_ 左の武家門は,2007年訪問時は左右の袖壁に傷みがありましたが(左上),2年後の訪問時は補修がされ,石段に新しく手すりが設置されました。手すりの設置は各地でも見られます。

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下之馬場の風景
東西に延びる通り沿いに石垣や生垣が続き,武家門が点在する。生垣の下のブロック積は,元は石垣積だったのではと思います。

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本通り沿いの武家門
腕木門。控え柱が見える。

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本通り沿いの武家門
腕木門。
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石柱門(左)と石垣(右)
本町の角に石垣(右)で囲まれた広大な屋敷跡が残っている。

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本町の風景
本通りは500m続く。

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阿多麓の武家門
腕木門。阿多の腕木門は加世田麓に劣らずどれも立派な構えをしている。阿多麓には南さつま市の文化財に指定されておかしくない武家門がいくつかある。
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上之馬場の町並み

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阿多の御新田用水路
享保12年(1727)から3年かけて新田川を開削し,万之瀬川の上流から水を引く用水路を完成させた。灌漑面積200ha余。工事責任者は今和泉島津家・島津伊織久近。今泉島津家は阿多の一部を領有していた。開田後,今和泉家は300石を領有。右は久近が腰かけたという殿様腰掛石。

中世の阿多郡について
中世の薩摩半島は薩摩平氏の支配下にあり,12世紀前半,阿多郡は薩摩平氏の一族である阿多氏(阿多忠景)が治めていた。忠景没落後は,鮫島宗家が駿河国から地頭として下向し,阿多郡を治めた。阿多郡は北方(田布施)と南方(阿多)に分割され,北方は二階堂氏が一時支配するが伊作島津氏に降伏し,南方の鮫島氏も島津氏の家臣となった。その後,相州家が田布施・阿多・高橋を領有した。

阿多城と島津運久について
相州家2代・運久(ゆきひさ)は,伊作家・善久の死後,常盤夫人を娶る際,善久の遺児・菊三郎(後の忠良)を相州家の跡継ぎにするという約束を交わした。運久は,約束通り,忠良を相州家の跡継ぎに迎え,自身は隠居して田布施の亀ヶ城から阿多城に移り住んだ。相州家を継いだ忠良は伊作城から亀ヶ城に移り,若くして田布施・阿多・高橋の領主となった。

訪問日:2009年8月22日(2007.11)
備 考:近くの春屋敷にも麓の遺構(石垣,生垣,武家門)が残る。貝殻崎城(城主:鮫島氏)の史跡あり。阿多城(鶴之城)は麓付近にあったと考えられる。
参 考:金峰郷土誌(S38〜S39発行,金峰町教育委員会)等

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