南九州の外城の町並み、麓の町並みの記録です。
山ヶ野





山ヶ野金山は,1640年に宮之城島津家・島津久通が金鉱を発見し,薩摩藩が幕府の許可を得て開発を進めた一大金山です。山ヶ野地区には,江戸期の金山奉行所跡など,往時を偲ばせる史跡や金山で暮らした町並みが残っています。

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山先役宅跡

山ヶ野金山は,霧島市横川町山ヶ野とさつま町永野にまたがる大きな金山で,一時期は日本最大の産金量を誇り,佐渡金山と並ぶ日本の代表的な金山でした。江戸期は全国から多くの鉱夫を集め,最盛期は2万人が働くほどの賑わいをみせました。横川町側の山ヶ野地区は江戸期の史跡や遺構が多く残り,さつま町側の永野地区(永野金山)は明治期の遺構が多く残ります。本稿では山ヶ野地区の町並みを取り上げます。

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山ヶ野地区の武家門
山ヶ野地区に入るといきなり武家門が現れる。藩の関わりを感じさせる遺構です。近くに石垣も見られる。

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えびす堂

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山ヶ野地区の武家門(郷士門)
郷士屋敷跡。金山奉行の下,多くの郷士が金山の管理に携わったと考えられます。

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山ヶ野地区の屋敷跡
石段と左右の石造りの袖から,石段の正面に武家門が建っていたのではと,つい想像します。

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山先役宅跡
山先とは最初に鉱山を見立てた者(見て、選定した者)に与えられる呼び名のようです。金山経営の責任者が金山奉行であるとしたら、山先役(*)は金山開発の実質的な責任者と言えます。幕府巡検視に対し金山の説明役も果たしました。「山ヶ野金山御取建之由緒」によると年間の役扶持が五十石であり,門構えを許された郷士格のなかでも高給取りであったと言えます。藩への貢献を考えれば当然の処遇と言えるかも知れません。

(*)初代の山先役は薩摩藩が招聘した石見銀山の山師・内山与右衛門が務めました。内山与右衛門が金鉱の第1発見者であるとも言われます。

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山先役宅跡近くの屋敷門
主屋根と袖壁の構造は武家門の形式のようですが,袖壁から左右に続く長屋形式の構造は初めて目にしました。興味ある構造です。

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金山奉行所跡
全盛期には金山奉行に加え,山奉行・町奉行・物奉行の役が置かれ,山ヶ野地区に薩摩藩の役所が建ち並びました。

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街路に沿って野積の石垣と生垣が続く
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石柱門(左)と付近の町並み(右)
右の屋敷は入口に武家門が現存していたようですが,訪問時は残念ながら無くなっていました。

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えびす堂付近の町並み

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山ヶ野小学校跡からの眺め

山ヶ野地区は,藩政時代,山ヶ野金山の開発の中心となり,全国から集まった鉱夫とともに,藩の役人,地元の郷士が居住し,金山経営を支えました。山ヶ野地区には武家門や石垣、生垣など郷士らが暮らした町並みが現在も残ります。

訪問日:2018年5月3日
備 考:山ヶ野金山ウォークラリー/ふれあい交流館(御在所跡)
参 考:霧島市・山ヶ野金山物語/新田栄治「山ヶ野金山初代山先役・内山与右衛門とその墓碑」/尚古集成館HP他

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