南九州の外城の町並み、麓の町並みの記録です。
重富





重富は,藩政時代に再興された越前島津家の私領地で,領主館である平松城の周囲に家臣の屋敷が計画的に整備されました。平松城を中心とする重富麓は,計画的な街路,野面積みの石垣,広い屋敷地など,麓らしい遺構が残ります。

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重富小学校(平松城跡)

平松城は,岩剣合戦(1554)に勝利した島津義弘が岩剣城の麓に館を築いたもので,これが平松城の始まりと言われています。島津義弘は,関ケ原の戦から帖佐に帰った後,平松城に滞在し,晩年は加治木の館で過ごしました。小学校の正門は西南戦争後に建てられた旧鹿児島県庁の正門を大正15年に移築したもの。
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平松城跡
館の石垣は大きな自然石を積み上げたもので,野面(のづら)積みと呼ばれる。左は2007年当時。

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重富麓の町並み(2007年)
重富麓は館の周囲に街路が計画的に作られており,屋敷を見事な生垣が囲んでいます。

越前(重富)島津家は,島津氏初代忠久の次男・忠綱にはじまり,中世の15代忠長で断絶したとされ,島津藩主・継豊が弟・忠紀を16代として元文二年(1737)に再興させました。越前家の再興にあたり,帖佐郷の一部と吉田郷の一部を割いて私領地とし,越前国に由緒のある重富を郷の名前としました。

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重富麓の武家門
領主館の正面に建つ。観音扉は乳鋲付きで潜り戸を備えた格式の高い門。家老格の門でしょうか。

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館の馬場
重富小学校の正門前を東西に走る街路は館の馬場と呼ばれ,幅11メートル,長さ275メートルもある。館の馬場の両側は石垣が連なり,石垣の上に水平に延びる生垣が見事な景観を作っています。
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重富麓の石垣
館を囲む石垣と比べると,家臣団の屋敷の石垣は総じて低く,ごろごろした自然石を積み上げたように見えます。イヌマキの生垣と竹垣が見られる。

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重富麓の町並み
正面に見える館の馬場から南北に街路が真っすぐ延びる。街路が計画的に作られている。

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重富麓の町並み
館の馬場の端から南北に延びる街路。屋敷の敷地は生垣で囲まれている。生垣の作る水平線が見事。

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重富麓の町並み
重富麓の特徴は,ゆったりと配置された家臣の屋敷と,屋敷を囲む見事な生垣にあると言えます。
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重富麓の町並み
館の馬場と平行に東西に延びる街路。キンチクの竹垣が見られる。
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岩剣城
背後の山は蒲生氏の居城であった岩剣城。

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重富麓の武家門
岩剣城を背景に二棟の門が並んで建ちます。右の門は屋敷取り壊し後も保存され,施設の表門として生まれ変わりました。

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栃山集落の町並み
重富麓近くの栃山集落。栃山にも石垣や生垣の町並みが見られます。

越前島津家について
島津氏の祖・島津忠久は,薩摩・大隅・日向の三国守護に補任され,越前国の守護にも任ぜられました。忠久が死去すると(1227),嫡男・忠時が後を継ぎ,次男・忠綱が越前守護代となり,越前島津家の祖となります。忠綱の嫡男・忠行が播磨国下揖保荘(現在の兵庫県たつの市)の地頭職に任ぜられると(1279),播磨国に下向し,以後播磨の有力国人として存続します(このため播磨島津氏と称される場合があります)。薩摩藩主により再興された越前(重富)島津家は,島津本宗家に次ぐ一門家の筆頭格に位置付けられました。

訪 問:2008年5月6日(2009.10,2011.4)
備 考:布引の滝/白銀坂/重富海岸
参 考:姶良町郷土史/林匡「島津氏一門家の成立」等

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