南九州に残る外城の町並み、麓の町並みの記録です。
大口





大口は,出水郷・高岡郷と並ぶ大郷で,薩摩街道(大口筋)に位置し,国境を守る要地として多くの郷士が配置されました。大口麓は大口城(城山)の近くに形成され,まとまった規模の武家屋敷群は見られませんが,各馬場に大郷の麓らしい遺構が現在も残っています。

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大口麓の武家門

大口麓は地頭仮屋を中心に街路と屋敷割が整備されました。大郷らしく屋敷の面積は平均500坪あり,出水麓の屋敷に引けをとらないほどです。
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諏訪馬場の町並み

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上之馬場の町並み
手前の武家門の先は祁答院家住宅。

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祁答院家住宅(上之馬場)
江戸中期と推定される貴重な郷士住宅。祁答院氏は薩摩の有力国人の一人で,島津氏に下り,家臣となって存続した。当時の薩摩藩の郷士の暮らしを知る上で貴重な建物。昭和50年に国の重要文化財に指定。母屋は茅葺き。武家門は腕木門で観音扉は乳鋲打ちの格式高いもの。石垣も古い形が見られる。邸内見学は不可。
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上之馬場の町並み
上は大口小学校の玉石垣(地頭仮屋跡)。上之馬場に沿って玉石垣が連なる。

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付近の町並み
切石積みの石垣,武家門も見られる。
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下之馬場の町並み

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竪馬場
竪馬場は地頭仮屋の正面から延びる街路。正面の山は大口城跡。
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諏訪馬場の郷士屋敷
武家門は腕木門で小屋根に袖壁付き。母屋は茅葺き。広い屋敷は低い石垣と生け垣により囲まれている。屋敷内のイヌマキも見事。
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諏訪馬場
諏訪馬場は街路が拡幅され,歩道と街路樹が整備されている。麓の雰囲気が残され,玉石垣と生垣が続いている。

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諏訪馬場の武家門
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諏訪馬場の武家門と付近の石柱門
右の石柱門は頂部の形が面白い。

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諏訪馬場の一部
街路の両側に玉石垣が築かれている。拡張前の諏訪馬場はこのような姿であったと思われます。
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片馬場の町並み
大口麓の一部の屋敷は大口城を囲むように配置されました。大口城の東側を通る片馬場には竹垣や玉石垣のほか,石柱門も見られます。

新納忠元について
新納忠元は,島津氏の三州統一に大きく貢献した武将です。菱刈氏の籠もる大隅の横川城や薩摩の大口城等の合戦で武勲を立て,1569年に大口地頭に任ぜられ,大口城主となりました。その後も、九州統一を目指す島津氏の重臣として木崎原の戦いや沖田畷の戦いに参加しました。関ヶ原の合戦で島津義弘がようやく帰国すると,肥後の加藤清正の来攻に備え,大口城に戻り国境を固めました。官位(武蔵守)から鬼武蔵の異名をとる猛将であった一方,薩摩の武将らしく和歌や茶を楽しむ教養人でもあったと言われます。諏訪馬場から続き,忠元を奉る忠元神社一帯は忠元公園として整備され,桜の名所として知られています。

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6月の郷士屋敷(2014年)
ソニーα6000を持参。緑が映える6月とはいえソニーはキャノンに比べ発色が派手になる傾向にあるようです。

訪 問:2008年11月5日(一部2014.6)
備 考:大口麓に残る武家門は6棟/大口城/忠元公園/忠元神社
参 考:大口市郷土誌

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