鹿児島県と宮崎県に残る旧薩摩藩領内の外城と麓の町並み記録です。
高隈





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高隈麓の町並み(背後は高隈山地)

高隈郷は,串良川の上流に位置する郷で,藩政時代は上高隈村と下高隈村からなり,地頭仮屋は上高隈村に置かれました。高隈郷の麓は,地頭仮屋を中心に串良川の東岸に形成され,往時の遺構が今も残っています。

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高隈麓の町並み

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高隈郷の地頭所跡(2007年)
県道から一歩入ったところに地頭所跡の標柱が立っています。

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高隈麓の玉石垣
高隈麓には薩摩藩の麓によく見られる玉石垣が残っています。ここの玉石垣は近くの串良川から採取した川石を使っていると考えられます。

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高隈麓の武家門
腕木門。左右に袖壁を備える。

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高隈麓の石門
めずらしい石造りのアーチ門が見られます。左右に玉石垣が続く。

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高隈麓の武家門
腕木門。左右に小屋根と袖壁を備える。

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高隈麓の石柱門と玉石垣
県道沿いに切石積みの石垣は見られませんが,県道から一歩入ると切石積みの石垣が残っています。

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旧高隈小学校跡(左)と石柱門(右)
現在の高隈小学校はここから別の場所に移転されています。

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高隈麓の町並み
県道から一歩入ると,切石積みの石垣が見られます。

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中津神社(上2007年、下2019年)
中津神社は高隈郷の総鎮守として,正平年間(1346年から1370年)に創建されました。

高隈と笠野原台地について
高隈の歴史は,大隅半島の中央に広がる笠野原台地の歴史とともにあると言えます。笠野原台地は,大隅半島の中央に広がるシラス台地で,江戸時代に荒地の開墾が始まりましたが,もともと水源が乏しく土壌の保水力が低い土地ゆえに,長年水の確保に苦労してきました。戦後に入り,串良川の上流に高隈ダム(大隅湖)が完成し,灌漑用水を安定して供給できるようになり,笠野原台地は,近代的な農業生産地として発展します。
その一方で,国の灌漑事業やダム建設に対する反対運動が地元で起こり,旧上高隈町の柏木地区から204戸もの世帯が水没予定地から移転したという歴史があります。

笠野原台地の堀(ほい)について
笠野原には「堀」の字がつく地名があちらこちらに見られます。これは薩摩藩が各地から家臣や郷士を笠野原に移住させて開墾させた名残りです。垂水島津家の垂水堀,平良堀,外堀,鎌田堀,土持堀など。それぞれの堀は,耕作地と集落を土手で囲み,風を防ぐ防風林を植えて境界としました。生活用水を確保するためシラス層の下の地下水位まで深井戸を掘らねばならず,鹿児島県の指定文化財となっている土持堀の深井戸は64mの深さがあります。


訪 問:2008年5月20日(一部2007.12, 2019.5)
備 考:高隈麓に残る武家門は2棟。
参 考:鹿児島県笠野原農業水利事業−水土の礎その他

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