鹿児島県と宮崎県に残る旧薩摩藩領内の外城と麓の町並み記録です。
高隈





垂水は大隅半島の西岸ほぼ中央に位置する町で,藩政時代は垂水島津家の城下町として栄えました。 垂水麓は林之城を中心に格子状の町割りが計画的に作られており,藩政当時の町割りが現在もそのまま残っています。

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林之城跡(垂水小学校)

垂水島津家は,島津家15代貴久の次弟・忠将を初代とする一門家で,島津氏中興の祖・島津忠良の次男を祖とする点で島津家の名門と言えます。垂水に1万石以上を領し,慶長4年(1599年),垂水島津家2代・以久が垂水領主となって以降,明治維新に至るまで16代・約250年にわたり垂水を統治しました。林之城は,北の垂水城(荒崎城)が手狭になったため,4代久信が現在の垂水小学校に林之城を築城し,家臣団とともに移ってきました。

垂水_ お長屋と館馬場(2006年)
館馬場は林之城(領主館)の前を東西に延びる広幅の街路で,犬之馬場とも呼ばれます。正門横の細長い建物は下級郷士の詰所となった長屋で,元々は正門を挟んで左右に建物が2つあった長屋門です。現在は片側の一つだけ残り,お長屋と呼ばれます。鹿児島県の指定文化財。鹿児島県内の他の麓には見られない貴重な遺構です。





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館馬場の石垣
6段の切石積みで笠石が頂部に載る。独特の風合いの石垣は凝灰岩からなる。

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館馬場の石柱門
頂部に笠石を載せた立派な石柱門が残ります。

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垂水高校と旧正門
加治木麓の加治木高校,国分麓の国分高校と同じく,仮屋前の馬場に面して建つ。垂水高校の前身は高等女学校で大正14年創立。右の旧正門は昭和6年の校舎落成から使用され,空襲に免れ,昭和45年まで通用門として使用されていた。

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館馬場の町並み
館馬場は約1000mまっすぐ延びる街路。街路沿いに林之城のお長屋の他、3棟の武家門が並んでいます。右の石垣は野積み。

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館馬場の石柱門
館馬場を歩くと垂水人形の展示販売の看板が出ていたが,残念ながらお休み。垂水人形は,帖佐人形や佐土原人形などと同じく,島津義弘が朝鮮半島から連れてきた陶工の手により作られた素朴な土人形です。江戸時代は家臣の内職として大いに作られました。

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館馬場の武家門

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館馬場の武家門

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館馬場の町並み(2008年)
低い2段の切石積みの上に水平線の生垣が続く。垂水麓は綺麗に手入れされている生垣が多い。

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館馬場の町並み

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橘通り(左)と垂水島津家墓所(右)(2008年)
橘通りは館馬場から北西にまっすぐ延びる通りで,中馬場(県道57号)を交差し,松原町に至る。橘通りの突き当たりはお長屋。右上の垂水島津家墓所は,令和2年(2020年)に「薩摩藩主島津家墓所」として,宗家および他の一門家の墓所と一緒に,国の史跡に指定されました。

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橘通りに残る武家門
垂水麓の範囲は,林之城一帯から中馬場(県道57号)を挟んで南側の松原町まで広がり,中馬場の南側に平行に延びる早馬通りにも麓らしい景色が見られます。

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中馬場(県道57号)の町並み(2006年)
県道57号線は垂水麓の中央を東西に通り,高峠を越えて,高隈へと通じる幹線道路。拡張された後も馬場の面影を残しており,綺麗に剪定された生垣が続く。

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中馬場(県道57号)に残る石柱門と武家門(2006年)

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松原町に残る武家門(2008年)
垂水麓には武家門が広範囲に点在します。

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早馬通りの町並み(田神地区)(2008年)
2代領主・以久(もちひさ)が垂水から佐土原城に移る際に,垂水から50人の家臣を連れる代わりに,佐土原から50人の武士団がこの地区に住み着いたと言われます。館馬場や中馬場と平行に東西に延びる早馬通りは約1キロにおよび,通りに沿って石垣や生垣が続き、麓らしい町並みがよく残っています。

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早馬通りの町並み(田神地区)(2008年)
ここも麓地区らしく古い武家門が残っています。

垂水麓の古地図(1645年)
江戸時代初期の垂水麓の古地図が垂水市のホームページに掲載されています。御屋敷(林之城跡)の周囲に町割りが計画的に作られ、家臣団の広い屋敷地が配置されていることが分かります。主要な街路は現在と同じく縦横に延びており、カーブする部分やクランクの箇所は現在もそのままです。


訪 問:2022年3月11日(一部2008.12,2006.1)
備 考:垂水麓に残る武家門は8棟と意外に多い。通りの名称を記した標識を各馬場に設置することが望まれます。
参 考:垂水市ホームページ他

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