鹿児島県と宮崎県に残る旧薩摩藩領内の外城と麓の町並み記録です。
西之表





種子島は佐多岬から南東約40kmの海上に浮かぶ南北に長い平胆な島です。鉄砲伝来の島として知られます。種子島の中心・西之表は種子島氏の城下町で,港を望観できる丘陵の高台に領主種子島氏の居城が置かれ,居城の南と北に家臣が居住する麓が形成されました。

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赤尾木城跡

種子島氏は,大隅国守護北条氏に仕えた肥後氏を祖とする説が有力のようです。肥後氏は鎌倉初期に種子島に下向して在地領主化し,島の名をとって種子島氏を名乗りました。初代信基以降,独立領主として種子島を統治しますが,戦国時代終りになると島津氏の家臣に組み込まれます。藩政時代の種子島氏は1万石を超える私領主として,また,藩主島津氏を支える重臣として存続し,明治維新を迎えます。

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鹿児島港(左)と八板金兵衛像(右)
鹿児島港から高速船トッピー・ロケットに乗船すると約1時間30分で種子島の玄関口・西之表港に着きます。西之表港の近くに八板金兵衛の像が建つ。八板金兵衛は美濃の出身で種子島に来島し刀鍛冶の頭領となる。金兵衛は14代種子島時尭に命じられ,苦心の末に国産第1号の鉄砲の製造に成功します。種子島は良質な砂鉄が多く採れ,多くの鍛冶職人が島に移住し,刀造りが盛んでした。

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種子島家の菩提寺・本源寺
本源寺は文明元年(1469)、11代種子島時氏によって創建されました。階段脇の石垣は珊瑚礁で作られ,魔除け・清めの意味があると言われています。

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赤尾木城跡(榕城小学校)
赤尾木城は別名上之城と呼ばれ,寛永元年(1624年),17代忠時が内城にあった居城をこの地に移し,明治2年の版籍奉還まで約250年にわたり種子島家の居城となりました。正門に立派な石柱が建ちます。城下(西之表)のあちこちにアコウの木が繁茂していたことから赤尾木城と呼ばれるようになったと伝えられています。

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犬の馬場
赤尾木城の角から幅広の馬場が東西に延びています。この馬場は犬の馬場(いんのばば)と呼ばれ,家臣の乗馬の稽古に使われた場所です。

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西之表麓の町並み(2010年)
家臣の屋敷は,赤尾木城の南と北に配置されました。上は赤尾木城跡の北側の町並みです。イヌマキや竹垣,南国の島らしくソテツも見られます。

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内城跡(旧榕城中学校跡)
街路の東側(右側)が上之城。西側が内城。14代時尭から17代忠時まで内城に居城。寛永元年(1624年)に上之城に移ります。

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栖林神社
栖林神社(せいりんじんじゃ)は19代久基を祀る神社です。久基は元禄11年(1698)に琉球から甘藷(かんしょ)を取り寄せ,甘藷を島内で栽培し普及させました。久基の功績を称えて,からいも神社と呼ばれます。

大的始式は毎年1月11日に栖林神社で行われる伝統行事です。明応9年(1500)に12代忠時が京都から弓の指南役を招き,文亀元年(1501)に宮中で毎年1月12日に行われる御的始式を真似たことが始まりとされます。京都と種子島の間で盛んに交流が行われていたことが窺えます。

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14代種子島時尭(左)と鉄砲館(右)
天文12年(1543)に種子島南端に漂着したポルトガル商人から鉄砲が持ち込まれると,14代時尭は自分の目の前でポルトガル商人に射撃を実演させました。時尭は鉄砲の威力に着目し二挺を買い求め,家臣に火薬の調合を学ばせる一方で,城下の刀鍛冶に一挺を分解させその複製を命じます。若干16歳でこのような決断と行動力には驚きます。

苦心の末完成させた火縄銃は種子島と呼ばれ,堺商人らを通じて全国に普及し,従来の戦法を大きく変えました。時尭が購入した鉄砲の一挺は島津義久に献上され,島津義久から足利将軍・足利義晴に献上され,残る一挺は紀州・根来寺の僧に譲ったと言われます。種子島は鍛冶職人が多く居住し,刀鍛冶の高い技術があったからこそ鉄砲の国産化第1号に成功したと言えます。

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西之表麓の町並み(2010年)
種子島氏の家臣は赤尾木城の南北(現在の野首・松畠・中目・小牧・納曾・中野(*))に居住し,島内の農村部に郷士が分散して居住しました。(*)麓六郷と呼ばれる。

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旧上妻家住宅(左)と武家門(右)(2010年)
上妻家は種子島家の家臣。道路脇に高い石垣が築かれ,石垣の上に腕木門が見えます。腕木門は支柱に丸太を使った珍しい形式。当時は武家門なのか分からず。旧上妻家住宅は2017年に国の登録有形文化財に指定されました。西之表市が保存活用を検討しています。

上妻家は鎌倉初期に代官として種子島に派遣された上妻一族で,種子島氏の初代信基以前に種子島を統治していたと伝わります。種子島氏が領主となると,種子島家の家老職を務め,港を望む高台に居を構えました。

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種子島家住宅(2010年)
種子島家の家老・羽生道潔が1793年に建造。石垣の上に武家門が見えます。明治19年に種子島家27代守時を種子島に迎える屋敷として用いられた。以後種子島家屋敷として存続し,国産第1号の火縄銃や貴重な種子島家文書などもここに保存されました。「街道をゆく」取材旅行中の司馬遼太郎など多くの著名人がここを訪れたそうです。

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種子島家住宅(2010年)
鉄砲館で武家屋敷の有無を尋ねたところ,この場所を紹介してもらいました。訪問時は西之表市が屋敷を買取り,整備している最中でした。現在は月窓亭として一般公開中。

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西之表港(左)と佐多岬付近(右)
西之表港には2500トンの貨物船も入港します。錦江湾はおだやかでも外洋は波が荒れます。佐多岬を右に見ながら高速船で鹿児島港に戻りました。西洋式鉄砲の国産化に我が国で初めて成功し,鉄砲づくりの技術を国内に伝播させた種子島氏の功績は,もっと高く評価されてよいと思いますね。


訪 問:2010年3月18日
備 考:種子島宇宙センター(JAXA),門倉岬,若狭姫。西之表麓に残る武家門は2棟。
参 考:西之表市HP,鹿児島県の歴史,西之表市史編さんだより,旧上妻家住宅保存活用計画(西之表市教育委員会)など

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