都城地頭・三島通庸は,明治3年(1870年),勝岡郷と梶山郷を合併して下三股郷(後の三股郷)を作り,原野であった山王原(さんおうばる)をこの地の麓と定め,大道路を建設し,近隣の郷士を70戸移住させました。三股町の山王原には三島通庸が開拓した町並みが今も残ります。

早馬神社(山王原)
山王原の開拓にあたり,三島通庸が早馬神社の社殿を新馬場に造り,土地の守り神(産土神)を遷宮しました(その後,現在地に移転)。早馬まつりはこの地を代表する祭りで,農家と牛馬の無病息災,五穀豊穣を祈願する祭りとして盛大に行われます。

三股開拓之碑(山王原)
三島通庸の業績を称える開拓之碑が稲荷神社の境内に建てられています。

山王原の町並み(2008年)
山王原に入ると直線道路に沿って野積みの石垣と生垣がどこまでも続く景観が見られます。生垣のつくる水平ラインが素晴らしい。

山王原に残る武家門(2008年)(上・下)
訪問当時武家門の屋根は崩れつつありましたが,左右に延びる生垣の間に佇む姿は存在感が十分あります。

山王原に残る武家門
両脇に小屋根,左右に袖がつく立派な武家門です。左右に腕木が見えます。

山王原の町並み
道路の両側に2棟の武家門が向かい合わせに並ぶ様は麓の景色そのもの。

山王原の武家門
腕木門。こちらも小屋根に両袖がつく。

石敢當(左)
石敢當は丁字路の突き当たりに設けられ,魔除けの意味があります。中国から琉球を経由して薩摩藩に伝わったと考えられており,各地の麓に良く見られます。

山王原の町並み
ここでも野積みの低い石垣に綺麗に刈り込まれた生垣が見られます。実に綺麗です。

山王原の町並み
山王原を南北に走る道路。山王原は東西南北に走る道路で計画的に区割りされています。

旧神宮司薬店(2008年)
山王原に当時あった薬店(*)。
(*)薬店と薬局の違いを調べてみると,処方箋に基づいて薬を調剤できるのが薬局で,市販薬を販売できるだけの薬屋を一般に薬店と呼ぶようです。

小倉邸武家門(山王原)(上下)
腕木門。小屋根に両袖付き。石垣は平石積み。小倉邸では,ひな祭りや端午の節句展などのイベントが実施されています(2025年)。

小倉邸武家門

山王原の町並みと武家門(2008年)(上・下)
ここでも野積みと平石積みの石垣,生垣,武家門が見られました。綺麗に刈り込まれた生垣やイヌマキが見事。

山王原の武家門

山王原の武家門
三股町を車で通る途中に見かけた武家門。上の武家門を車から見かけたことが山王原の麓を訪れるきっかけとなりました。ぶらり旅の面白さというのでしょうか。
梶山城と勝岡城について
三股町にある梶山城と勝岡城は,鎌倉後期に樺山氏の築城と伝わり,廃城後は山裾の麓に地頭館が置かれました。庄内の乱では伊集院方の家臣や一族が梶山城と勝岡城に籠城し,島津方と交戦しました(庄内十二外城)。
樺山氏について
樺山氏は島津氏4代忠宗の五男・資久を初代とする島津氏庶流で,日向国三俣院の樺山の地を与えられ,樺山氏を名乗りました。初代資久は樺山城を築き居城としました。樺山どんの墓(五輪塔)は初代資久の墓と伝えられます。
訪 問:2008年9月15日
備 考:早馬まつり/樺山城/がんばっど!山王原/樺山どんの墓
参 考:広報みまた(※),三股町ホームページ等
(※)三股町ホームページに1963年以降の貴重な広報が掲載されています。当時の記事を1963年から読み進めましたが途中で断念しました。
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