小林市は霧島連山の麓に位置する人口4万3千人の町です。藩政時代の小林郷は大郷に区分され,島津氏の直轄領として真方村の上之馬場に地頭館が置かれました。真方の上之馬場から向江馬場にかけて麓の遺構が広く残ります。

上之馬場の町並み(2010年)
上之馬場から旧須木村へ向かう国道265号線。訪問当時,地頭館跡の斜め向かいに立派な武家門が残っていました。上に見える武家門は郷士年寄を務めた赤木家武家門。

地頭仮屋跡(上之馬場)
小林(三ツ山)は古くはえびの市一帯を含め真幸院と呼ばれ,小林が島津氏の支配下になると,小林城に地頭を置きましたが,小林城が廃城になると,近くの真方に地頭館を置いて小林(三ツ山)を統治しました。

上之馬場の武家門(上・下)(2010年)
観音開きの扉に潜り戸を備える格式高い門です。小林郷の郷士年寄を務めた赤木家の腕木門と考えられます。同じ大郷である志布志麓の郷士年寄・福山家の武家門を思わせる立派な門です。

上之馬場の武家門(2010年)
国道を挟んで地頭仮屋跡の斜め向かいにありました。

西郷どんの道(上之馬場)
熊本・田原坂の激戦に敗れた西郷軍は,人吉から都城,宮崎,延岡へと退却し,可愛岳を越えて険しい山中を南進し,鹿児島を目指しました。地頭仮屋跡の裏手の道に西郷隆盛が通ったことを示す標柱が建っています。明治10年8月28日通過。西郷軍が鹿児島に帰還したのは田原坂の激戦から約6か月後のことです。

上之馬場の町並み
地頭仮屋の西側。

上之馬場の武家門
腕木門。こちらも中央に観音扉を備え,左に潜り戸を備える立派な構えをしています。
上之馬場を国道に沿って下ると(最初の画像)下之馬場に入り,国道を下ったところに小林城跡の入口があります。向かいの大手橋を渡ると向江馬場です。

向江馬場の町並み
向江馬場は,広幅の街路に沿って低い玉石垣と生垣が続き,麓らしい景観が見られます。

向江馬場の武家門
腕木門。こちらも観音扉に潜り戸を備えています。

向江馬場の石柱門

向江馬場の町並み
上の広幅の街路と交差する街路にも低い玉石垣と生垣が左右に続きます。
小林城について
小林城(別名三ツ山城)は島津氏に対する抑えとして伊東義祐が家臣の須木城主・米良重方に命じて作らせた山城です。飯野城に集結した島津軍(島津義久・義弘・歳久)が三方から小林城を攻め立てましたが,小林城主・米良重方は須木城からの援軍を得て、島津軍を撃退します(小林城の戦い)。小林城は伊東軍が島津軍を大敗させた城として知られます。
訪 問:2010年5月4日
備 考:小林城/伊東塚/JR吉都線/陰陽石/生駒高原/輪太鼓踊り
参 考:小林市ホームページ,小林市教育委員会「こばやしの戦国ものがたり」等
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