鹿児島県と宮崎県に残る旧薩摩藩領内の外城と麓の町並み記録です。
飯野





飯野はえびの市の東部に位置する地域です。藩政時代の飯野郷は薩摩藩の外城の一つで,飯野郷の地頭館は,飯野城のふもと,川内川左岸の平地に置かれました。飯野麓は,飯野城の南裾野から地頭館にかけて形成され,石垣などに往時の面影が残ります。

飯野
地頭館跡(えびの市役所飯野出張所)
飯野の大イチョウと呼ばれる大きな銀杏は樹齢500年。島津義弘の長子・鶴寿丸(近くの加久藤城で誕生,8歳で病死)の供養樹として地頭館内に植樹されました。

飯野城は真幸盆地(加久藤盆地)を一望できる高台に位置し,島津義弘が26年間(1564年〜1590年)拠点とした城として知られます。周囲をシラスの急崖で囲まれた要害の山城で,南縁は川内川が流れて天然の外堀となっています。1572年,飯野城から出陣した義弘が木崎原で伊東義祐を破り(木崎原の戦い),この合戦は島津氏が南九州に勢力を拡大するきっかけとなりました。

飯野
石敢當(左)と地頭館跡近くの玉石垣(右)
上の石敢當は,宝寿院第五世誠意法師が元禄2年(1689年)に建立したもので,記念銘のある石敢當では南日本最古のもの(えびの市教育委員会)

飯野 地頭館跡近くの玉石垣と生垣
地頭館跡近くに立派な玉石垣と生垣が残ります。玉石は近くの川内川から採取したものでしょうか。

飯野
飯野麓の低い石垣と生垣
麓らしい低い石垣と生垣が見られます。

川内川の対岸(右岸)に移動しました。飯野城址の南裾に位置しますが麓の町並みが広がります。

飯野
飯野麓の町並み(川内川右岸)
街路が途中で折れ,玉石垣と生垣が残っています。石敢當も残る。

飯野
飯野麓の町並み(川内川右岸)(上・下)
街路の両脇に玉石垣と生垣が続き,麓らしい景観が残ります。

飯野 飯野麓の町並み(川内川右岸)

木崎原の戦いについて
木崎原(きさきばる)の戦いは,1572年、真幸院木崎原(現在のえびの市)で伊東義祐と島津義弘の間で行われた合戦です。三ツ山城(小林城)を出発した3000余の伊東軍は2隊に別れ,1隊は飯野城を迂回して加久藤城を攻め落とそうとしたが失敗し,池島の鳥越城に布陣した別の1隊と合流しました。しかし,伊東軍は,飯野城から出陣した義弘の本隊と,吉松・吉田・馬関田,菱刈,大口の各地から駆けつけた援軍からなる島津軍に包囲され,木崎原で一大激戦を交えました。この一戦を境として,島津氏は三州統一へと邁進し,伊東氏は衰退に向かいます。

訪 問:2010年5月4日
備 考:飯野城/木崎原の戦い 
参 考:えびの市ホームページ/えびの市教育委員会「えびの市の城館跡」/えびの市歴史民俗資料館等


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