鹿児島県と宮崎県に残る旧薩摩藩領内の外城と麓の町並み記録です。
内之浦





内之浦は大隅半島の東部に位置する町で,志布志湾と太平洋に面し,中世以来,海外貿易の拠点として栄えました。藩政時代の内之浦郷は,南方(南浦)・北方(小串)・岸良の三か村からなり,南方村に地頭仮屋が置かれました。内之浦はロケット発射場のある町としても知られます。

内之浦
内之浦
南方・麓地区の町並み(2008年)
南方を南北に走る国道の両側に石垣や生垣などの遺構が見られ,当時の町割がよく残ります。訪れた日は天候に恵まれず。

中世の内之浦は,大隅の豪族・肝付氏の支族である内之浦氏(岸良地区は岸良氏)によって治められました。肝付氏が島津氏に降ると,本郷氏,次いで伊集院忠棟の領地(飛び地)となり,その後島津氏の直轄領として高山郷に組み込まれた後,外城として独立します。

内之浦
内之浦
南方・麓地区の町並み
八坂神社付近。上の仁王像は玄忠寺の入口に建つ

内之浦
内之浦
南方・浦町地区の町並み
藩政時代,内之浦の津口番所は,内之浦湾に出入りする船の監視と取締り,船荷の検査を行っており,当番の役人は,財部・敷根・福山・松山・牛根・高城・野尻・加久藤・綾・小林の各外城から派遣されました。背後の山は国見山系。上の民家は旧網元で,藩政時代に内之浦郷で最大の豪商・廻船問屋を営んでいたと言われます。

内之浦 浦町地区の町並み(左)
1月下旬。民家の古木に梅の花が咲く。藩政時代の南方は,肝付衆中を含む郷士の屋敷が並ぶ麓地区と,町人・浦浜人が暮らす浦町地区に分かれていました。

享保15年(1730)と天保11年(1840)の火事で多くの郷士が南方から北方に移住します。
幕末には海岸防衛のために国分・清水・牛根・加世田等から郷士が内之浦に移住しましたが,大部分は北方に屋敷を構えました。これらの経緯で北方にも麓地区が形成されました(内之浦町史)

内之浦
北方・麓地区の町並み(2008年)
南方から内之浦支所と広瀬川を越えて北方に入ると,国道448号線沿いに生垣が続く区間があります。

内之浦
内之浦
北方・麓地区の町並み
北方の麓地区の国道沿いに立派な石柱門が残ります。この日は梅の花が満開

内之浦
内之浦
北方・麓地区の町並み
国道から西側に入ると綺麗に剪定されたみごとな生垣とイヌマキが見られます。

内之浦
内之浦
北方・麓地区の町並み
1月下旬,北方の麓地区では梅の花が咲き乱れ,実に多くのメジロが花の蜜を求めて集まっている光景に驚く。初めて見た光景です。

内之浦
菅原神社(北方)
明治5年,菅原神社(天神社)の敷地に,北方の字新道から熊野神社が遷座されました。周囲の屋敷に梅の木が多いのは神社(菅原天神)と関係があるのかも知れません。近くに景行天皇が創建したと伝わる高屋神社があります。1853年に島津斉彬公,明治5年に明治天皇の勅使が高屋神社に参拝したとの記録があります。

内之浦宇宙空間観測所について
日本の宇宙開発の歴史を語る上で内之浦は欠かせません。日本で初めの本格的なロケット発射場が内之浦に建設され,1970年,日本最初の人工衛星「おおすみ」が内之浦から打ち上げられました(その後、ラムダ、ミューからイプシロンへと引き継がれます)。技術者の活動の裏に地元婦人会の多大な貢献と協力があったと語り継がれています。敷地内に「日本の宇宙開発の父」と呼ばれる糸川英夫博士の銅像が建立されました。

内之浦へのアクセスについて
2002年の国見トンネルの開通により,鹿屋市方面から内之浦へのアクセスがかなり改善されました。

訪 問:2008年1月23日
備 考:高屋神社/国見展望所/衛星ケ丘展望台/国見トンネル
参 考:内之浦町史(S41発行)/きもつき情報局/JAXA宇宙科学研究所等


|戻る| |ホーム|

Copyright (C) Tojoh Archives. All Rights Reserved.