鹿児島県と宮崎県に残る旧薩摩藩領内の外城と麓の町並み記録です。
高尾野





旧高尾野町は,出水平野の中央に位置し,藩政時代の高尾野郷は,柴引・大久保・下高尾野・唐笠木・上水流・下水流の各村から構成され,地頭仮屋は柴引村に置かれました。現在も地頭仮屋跡の県道沿いに往時の麓らしい町並みが見られます。

高尾野
高尾野麓の町並み(県道沿い)

室町から戦国時代にかけて出水平野を支配したのは薩州島津家です。薩州島津家は,島津宗家8代久豊の次男・用久に始まり,7代忠辰の代で秀吉により改易され,所領が没収されます。出水平野はその後島津氏に返還され,藩政時代,島津氏の直轄領として各郷(出水・高尾野・野田)に地頭が置かれました。

高尾野
地頭仮屋敷跡(2008年)
県道沿い。地頭館は当初ここから肥薩おれんじ鉄道の線路を挟む反対側の高尾野城(紅葉城)に置かれ,阿久根から移った郷士も城の周囲に居住しましたが,高尾野城の廃城(1615年)により,地頭館が現在地に移ると城周囲の郷士も現在地に移転し,麓が形成されました。育英館は高尾野小学校の前身(1862年創立)

高尾野
高尾野麓の町並み(県道沿い)(上下)
県道沿いに生垣や竹垣,イヌマキ,高い屋敷林が続きます(上下)。

高尾野

高尾野
高尾野麓の石柱門
県道沿いに石柱門が複数残ります

高尾野
交差点付近(県道沿い)

高尾野
高尾野麓の石垣と石柱門(2008年)
丸石を積み上げた低い石垣とその上の花壇,背後の生垣の組合せがよく調和しており,花壇の花が通りに彩りを添えています。

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高尾野麓の町並み(県道沿い)

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麓バス停付近

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高尾野麓の武家屋敷(2008年)
珍しい石橋が見られます。高尾野麓の石垣は丸石積み(玉石垣)が基本

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高尾野麓の石柱門

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紫尾神社付近の町並み
紫尾神社まで生垣と屋敷林がずっと続きます。近くの若宮神社付近の街路も麓らしい景観が見られます

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高尾野麓の武家門
腕木門。紫尾神社付近に残ります

高尾野
紫尾神社
紫尾神社は高尾野郷の総社。祭神は「日向三代」の神々。紫尾山を神体とする山岳信仰において,紫尾山の麓に里宮として創建されたと伝わります(*1)。

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紫尾神社拝殿

(*1)さつま町柏原にある同名の紫尾神社も,紫尾山頂を上宮とする山岳信仰の下宮で,紫尾三所権現と呼ばれます。両社は国史見在社の論社とされ,国史見在社とは延喜式に記載がないが六国史に名前が見える神社のこと,論社とは複数の候補がある神社のことです。

木牟礼城について
島津忠久(*2)の家臣・本田貞親が木牟礼城を築き,木牟礼城は守護所として初代忠久から5代貞久の間,島津氏による領国経営の拠点となりました。高尾野町江内に城跡があります。

(*2)島津忠久(本姓惟宗氏)は,京都から鎌倉に下向し,源頼朝の御家人となり,島津荘の下司職から地頭,薩摩・大隅の守護職に任ぜられます。忠久が山門院に下向して木牟礼城を居城とし,その後庄内(都城)に移って居(祝吉御所)を構えたと伝わりますが,実際は南九州に下向せず,鎌倉で生涯を終えたという説が有力のようです。


訪 問:2008年7月1日
備 考:紫尾神社/紅葉城跡/木牟礼城跡
参 考:高尾野町郷土誌(H17発行)/鹿児島県神社庁公式サイト/出水市公式サイト/県史46鹿児島県の歴史等


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