宮之城は,川内川中流の宮之城盆地に位置する町で,川内・大口と並ぶ北薩の商業の中心です。藩政時代の宮之城郷は,宮之城島津家1万5千石の私領地で,現在の盈進小学校の敷地に領主仮屋が置かれました。領主仮屋の周囲に麓が形成されました。

盈進小学校の正門(領主仮屋跡)

領主仮屋跡の碑(左)
宮之城郷は,屋地・虎居・平川・柊野・舟木・時吉・湯田・求名の8か村からなり,屋地村(麓村)に領主仮屋が置かれました。宮之城の中心である屋地は,盈進小学校を中心に街路が格子状に延びており,計画的に町割りが作られたことが分かります。盈進小学校の周囲と,東の愛宕地区や西の城ノ口に麓らしい遺構が残っています。
宮之城島津家は,島津忠良の三男・尚久を初代とする島津氏の分家で,1万5千石を領し,家格は一門家に次ぐ一所持ちです。忠良の長男・貴久は島津宗家を継ぎ,二男・忠将は垂水家の初代です。慶長4年(1599)に本郷氏が都城に戻ると,翌年の慶長5年(1600)に忠将の子・忠長が東郷から宮之城に移り,虎居城の対岸に菩堤寺として宗功寺を建立し,宮之城島津家が創設されました。忠長は虎居城を居城としましたが,3代久元のときに鹿児島城下への居住を命じられ,7代久方のときに藩の家格整備が行われ,一所持ちの家格とされました。以後15代久治まで宮之城を治めます。

盈進小学校の石垣
小学校の正門に面する通りは東西に直線状に延びており、東に進むと宮之城駅跡です。盈進小学校は,安政5年(1858)に15代久治が建てた盈進館(えいしんかん)を起源とし,鹿児島県内最古の学校です。

盈進小学校の裏手(2008年)
小学校の裏手に位置する通りもほぼ東西に延びています。石垣に沿って続く生垣が見事。街路の北側近くを川内川が流れています。

盈進小学校の石垣
小学校の東側に面する通りは南西に直線状に延びています。小学校の正面の角を左折すると6段積みの見事な石垣と生垣が続く。通りの東側はさつま町役場の敷地。

屋地の中心に残る石垣(2008年)
屋地の中心市街地は開発が進んでいますが,所々に古い町並みが残ります。上は切石積みの古い石垣。見事なイヌマキも見られる。

松尾神社近くの町並み
中心市街地から東の愛宕地区に古い石垣と生垣が続く町並みが残ります。

愛宕地区の町並み
上の石垣はいかにも古く見えます。近くの松尾神社は,2代忠長が東郷から宮之城へ移った際に家臣の稲富掃部長之が山城国の松尾社の神霊を当地に勧請して創建したと伝わります。元は中心市街地にありましたが,昭和20年に愛宕地区に移転しました。
愛宕地区から屋地の中心を城ノ口まで八幡馬場が一直線に伸びています。八幡馬場を進むと城ノ口の入口に八坂神社,その上に南方神社が建っています。

八坂神社(左)と南方神社(右)
八坂神社は国道328号線沿いに商店が並ぶ宮之城商店街の一角に位置します。本郷時久が1596年に各地から商人を集め,野町を作りました。この野町が宮之城商店街の起こりと言われています。

城ノ口の町並み
城ノ口は虎居城跡に近く,国道328号線の西側,商店街から少し高い位置にあり,高い石垣や武家門などの遺構がよく残っています。

城ノ口に残る武家門
長い石段の上に古い武家門が建っています。

城之口に残る石柱門
こちらも堂々たる構えをしています。
宮之城島津家と山ヶ野金山について
藩の家老を務めた4代島津久通が山ヶ野に金鉱を発見し,幕府の許可を得て金山開発を進めました。山ヶ野金山は,横川町山ヶ野とさつま町永野にまたがり,佐渡金山と並ぶ日本の代表的な金山です。江戸期に全国から多くの鉱夫を集め,最盛期は2万人が働くほどの賑わいをみせました。山ヶ野は江戸期の史跡や遺構が多く残り,永野は明治期の遺構が多く残ります。
片倉製糸宮之城工場について
宮之城はかつて養蚕が盛んで,屋地の中心に大きな製糸工場が建っていました。現在のプラッセだいわ宮之城店の場所です。西南戦争で東京に収監された宮之城の平田孫一郎が,明治18年に盈進館の敷地の一部に宮之城製糸所を設立したことに始まり,製糸所は現在のプラッセだいわ宮之城店の場所に移転しました。製糸所は大正15年に片倉製糸紡績に引き継がれ,宮之城工場として昭和56年まで操業されました(以上、公報さつま令和5年3月号)。屋地の中心に大きな製糸工場があった歴史にちょっとした驚きがあります。鹿児島県内の養蚕業の歴史を調べると面白いかも知れません。
訪 問:2020年9月13日(一部:2008.10)
史 跡:虎居城/島津歳久供養塔/楠木神社/松尾神社/穴川橋
参 考:さつま町ホームページ/公報さつま/宮之城文化懇談会等
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